沈思黙考
震災から10日が過ぎました。
被災地の方々の窮状打開と原発事故の事態収束を祈り続けています。
時々刻々の報道に多くのことを思います。
上の写真は昨年撮影した明け方未明の東京の風景をモノクロに変換したもの。
ある媒体で企画に応じた意図で撮影したものですが、今、ここに、このように載せると何かしら別の意図を持って迫ってくるようです。
見る側が表現者の意図を超えた受け取り方をする場合もあるだろうし、また表現者はタイミングや媒体によって同じ写真の意図を変容させることも可能です。
ここで写真論を展開することが本意ではないので長い記述は避けますが、私は基本的にそのことは自由であり創作活動において担保されるべきことと考えています。
それが楽しさや感動を生むことはたくさんあります。
しかし、一方で日々のニュースに触れていると「伝えること」と「理解すること」の本当の重要性と難しさを考えざるを得ません。
福島第1原発3号機がプルサーマルであることに言及する大手TV局は未だ無いようです。少なくとも私が注視している画面からは伝えられてきません。
事故以前は果たして誰が補修やメンテナンスをしてくれていたのか?決死ともいえるような作業を、ということを、これから後に報道してもらえるのだろうかも疑問です。
震災直後、スーパーに大量に売れ残っていた福島産スペアリブを買いました。
骨付きで煮込んで洋風おでんにして食べました。
3年間お皿の向こう側の世界を取材してきた自分のささやかなアンチテーゼでした。
でも今はそれも難しい。
悩みます。
風評被害を招いてはいけない。
だけど、風評被害を招くという言葉の圧力に負けて思考停止になっては駄目だ。向き合っていくしかないと思う。
わからないことに向き合わない態度が奇妙にバランスをとってしまうことが恐い。だから自分は民度の高さという言葉に懐柔されたくなんかない。
「知ろうと思えば」という場所に臨むこと。そこで発表したり提供したりすること。マスではないかもしれないけれど、その意義は別にあるのだ、確かにあるのだ、ということがやっと身に染みました。
明日の世界に一欠片の勇気を!
宮崎 純一
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