六等星
夜空に瞬く星々。
見える星は一等星から六等星まで分けてある。
一等星はあのでかい星だ、六等星はほとんど目に見えないくらいかすかな星のことだ。
だがな、ちっちゃな星に見えるけどあれは遠くにあるからだよ。
じっさいは一等星よりももっと何十倍も大きな星かもしれないんだ。
(ブラック・ジャック/手塚治虫より)
写真は宮城県石巻市。
今日で震災からちょうど2ヶ月となる。
しかし「こんなはずではなかった」という事の渦に巻かれた心には、時間に単位などありはしない。
なにも震災に限った話ではない。
いじめや差別、失恋、離別、落ちこぼれ。
そこに重機は入れられなかったろう。
GW、石巻の保育所で表土改善作業の翌日、以前取材させていただいた漁師のKさんご家族を訪ねた。
この季節、本来ならばコウナゴ漁で浜は賑わう。
写真は宮城と県境を接する福島県相馬郡新地町釣師浜の現在の様子である。
「晴れた日には、今日は沖にでればぁ百万だぁなんで言っで笑っでるよぉう」
東北の漁師独特の朗らかな懐っこさに相好を崩すと、Kさん(おかあさん)は避難所に入って以来綴っている日記を開いてくれた。
孫の保育所で、頭上に桜が咲いていることにふいに気がついたこと。
上を向けて良かったですねという先生の言葉。
寝言を聞けば他人様の財産までわかってしまうという冗談。
避難所である小学校の卒業式にみんなで参加したこと。
亡くなられた生徒さんの代わりに先生が卒業証書を受け取ろうとするその時、列席者皆の携帯電話から地震を予知する警報音が一斉に鳴り響いたこと。
泣いたこと。
文字を指でなぞりながら、出来事を間違いのないように話したいという想いが伝わってくる。
それはまたご自身の心情を告白するようでもある。
漁師の町、釣師浜。
周辺の港が1、2艘を残し、ほとんどの船を失ったのに対し、ここでは全体約40艘のうち実に30以上が残ったという。
最初に地震が起きた時、Kさん(おかあさん)は自宅にいた。
5日前に買ったばかりのテレビを押さえながら必死に念仏を唱えた。
息子さんは母の背に「船を出す」の一言を残し、港へ走った。
津波を斜めに越えながら、沖へ、沖へ。
闇夜を漂い、帰港したのは翌夕方。変わり果てた町に呆然としたが船は残った。
息子さんが跡継ぎとなった当時、喜んだ親父さんが数千万をはたいて買った祝い船だった。
親から子へ受け継がれた船は、受け継がれた漁師根性に守られた。
港は壊れ、海の底は荒れ、事故を起こした原発からは放射能汚染水が放出、壊滅的な被害は承知の通りだ。
しかし果たして本当にもう漁はできないのだろうか。
息子さんは私と同じ歳の38歳なのである。
あの日以来、船にガソリンをいれていない。
もうあんな恐い思いはしたくない。
今はまだ答えがない。
繰り返し、Kさん(おかあさん)は言う。
あの日、あの晩、何があったのか。この浜の漁師達の甲斐性をわかってもらいたいのだと。
「またいつか美しい浜で会いましょう」
そう言って差し出す親父さんの手はでかい。
一年半前の冬、初めてこの地を訪れた時にごちそうになった飯を思い出す。
うす口の醤油でさっと炊いた太い子持ちのカレイの煮付け。
立派だ。
身はホコホコとやわらかく、立ちのぼる湯気に顔を突っ込んだ。
「その顔を見んのが嬉しいんだぁ」
頭上の桜を忘れても、この方々が海を忘れることはない。
春告げ魚は来年もまたやってくる。
<付記>
この日、東京から料理研究家チームが炊き出しに訪れました(被災地支援プロジェクト"COOK FOR JAPAN")。引率担当さんが知り合いで、取材兼お手伝いで現地合流させていただきました。メニューは地元リクエストに応えての魚料理でした。
詳細はこちら
宮崎 純一
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