トップイメージ

2011/04/18

桜とダイヤモンド


tokyo delicious斉藤優が誕生石をテーマにした合同展で
毎月1点づつ作品を出して行きます。
誕生石をテーマにした料理(ケーキ)と写真、4月はダイヤモンド。


住所:東京都渋谷区恵比寿1-8-7三恵8ビル1F
時間:月・火・水・木 19:00-2:00 
   金 19:00-5:00
   土・日 19:00-24:00
休日:祝日

花渕浩二

ラベル:

2011/04/15

元気になるニッポンの味めぐり<食育丸の内>


食育丸の内webサイトがリニューアル。
(「食育丸の内」とは、三菱地所の「都市と食に関する問題」に取り組むプロジェクトの一環です)

特集コラム「元気になるニッポンの味めぐり」にて取材撮影しております。
文章がとても良いです。よろしければご一読ください。

この写真のタイトル、「元気にする」の間違いじゃないだろうか??
コラム内の写真も間違ってるな。修正依頼しておこう。


宮崎 純一

2011/04/14

さよなら原発

震災から一ヶ月余りが過ぎた。
以前に取材させていただいた東北太平洋沿岸の生産者の方々の無事が確認できた。
胸を撫でおろしたのも束の間、GoogleのPerson Finderに直接いただいたメッセージによると、ご自宅や作業場は全壊。今もご家族で避難所生活を送られているそうだ。
それでも、復興に向けて活動しておりますのでご安心くださいと、その短いメッセージは結ばれていた。

福島原発事故はレベル7へ。
東北北関東の土壌や食物、あるいは人体への放射能汚染の罪の重さはもちろんのこと、諸外国へ一切の告知もなく放射能汚染水を海へと排出したことで、日本は今、世界の海を放射能で汚した海洋汚染犯罪国家となってしまった。

この一ヶ月、まるで戦時の大本営発表のような情報統制の中、本当のことが知りたいと思った人たちはとても困惑したと思う。

爆発事故後、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)というものを知ったけれど、ちっともスピーディーに公開されなかった。仕方がないのでドイツのサイトで放射能拡散シュミレーションを見て愕然とした。
買い占めは止せ、風評被害を招くな、日本は強い国、全ての言葉が上滑った。
政府は震災以降、記者クラブからフリーランスのジャーナリストと海外メディアをしめ出した。
原発事故現地取材のプレスツアーを政府へ要請する大手マスメディアは見当たらない。それどころかまるで立ち入ることを拒否するかのように、住民の非難域よりも広範な取材自粛区域を設け、不甲斐なく政府発表を垂れ流すばかり。

自由報道協会IWJビデオニュース・ドットコムなど独立系メディアのサイトにアクセスして情報の差異に気づくよう努める日々。

突然の計画停電発表と爆発事故の符合の怪しさ。今後の是非はともかく、国難にあたり火力発電所を本気で再稼働させるつもりはあるのか?
今、本当に節電は必要なのか?

調べて考える。正直、それだけでとても疲れる。

歪んだ一次情報を垂れ流す一方で、ヒューマニズムを語るTVニュース。
頭が変になりそうだ。

私は特に右でも左でもなく、社会運動家でも宗教家でも学者でもない。
だけれども「原発はいらない」とその立場だけは明確にここに記しておきたい。


4/16(土)に渋谷でこんなデモがあるそうだ。

先日の高円寺での反原発デモは、ある商店主たちがTwitterやSNSで自主的に呼びかけたものだったにもかかわらず、集まった人々で駅前が埋め尽くされた。
感情が先走った行為ではないかと言われれば、それは否めないのかもしれない。
事前告知が適切でなかったために地元住民への迷惑など問題も指摘された。その点は反省しなければならない。だけれども、今、原発反対へアクションを起こすということに私は賛成だ。渋谷のデモの様子は後日また写真とともに書き記したいと思う。

最後にこちらも紹介させていただきます。

それから、私、ちゃんと通常の仕事もしております。


宮崎 純一

2011/04/11

Neon Genesis ONIGILION(ヱヴァNo.47)


ヱヴァ飯、RADIO EVAにアップされてます。

大切な人たちとまた青空の下で美味しいごはん広げて集まれるといいな

花渕浩二

「国際料理斗写真機構」
料理斗文章:ハラシママサミ(tokyo delicious
写真斗構成:花渕浩二(eat photo)

ラベル:

国際料理斗写真機構 Meal travel agent 最終回






これが、最後だ!!


国際料理斗写真機構「Meal travel agent LAST GIGS


正式名称


“LAST GIGS" LIVE AT EAT TOKYO  "Meal travel agent" APRIL 4,28 2011


20097月ー
国際料理斗写真機構のMeal travel agentはスタートいたしました。

文化、産地、トレンド、発想、食の現在進行形を切り取った写真を肴に、
EAT TOKYOでしか出会えない人と味、お腹を空かせて来てもらう食の旅として
世界各国の料理をテーマに、毎月1カ国の美味しい料理をご提供させていただきました。


200114月ー
そんなMeal travel agentも、いつの間にか世界20カ国を超え
「続けて行く事の大切さ」を胸に頑張って参りました。

しかしイベントを開催するに連れ、新しいモノ・場所を作るということに対する可能性、
そして新しい流れを生む更なる環境活性化に繋げていくことが、挑戦であり成長の
為に今が重要な時期と判断し、428日をもちましてMeal travel agent
最後とする運びとなりました。

今まで本当にありがとうございました。

いつも国際料理斗写真機構を応援してくれている皆様には、心から感謝しています。
そして皆さまのご声援が心地良く、そして心強く響きました。





国際料理斗写真機構「Meal travel agent 最終回 menu


当日、発表。


428日のラストワールドフードは、今まで20カ国以上を食旅行してきた中より
よりすぐりのフードをご用意いたしますので、お楽しみに。
最後のメニュー名は、みんなで決めて国際料理斗写真機構のMeal travel agent
終了したいと思います。




国際料理斗写真機構 PresentsMeal travel agent LAST GIGS
・日時:428(木)20:00~23:00
・会費:3500円(ラストフリードリンク+ラストワールドフード)
・場所:EAT TOKYO
150-0021 東京都渋谷区恵比寿西2-5-2 今村ビル3F




慌ただしい毎日は続きますが、国際料理斗写真機構として新しい作品、場所、時間を
発表できるよう、ハラシマ マサミと花渕浩二の2人は旅にでます。

そして、それぞれ成長していこうと思いますので、今後ともよろしくお願いします。


ということで、


国際料理斗写真機構 Meal travel agent 最終回


これが、最後です。



これが、最後だ!!


2年という短い間でしたが、Meal travel agentで得た貴重な経験を活かし、
今後につなげて行ければと思います。


今まで本当にありがとうございました。


またどこかで、逢いましょう。


バイバイ。

【国際料理斗写真機構  ~International food and photograph foundation~
料理斗文章:ハラシマ マサミ(tokyo delicious )
写真斗構成:花渕浩二(eat photo )

ラベル:

2011/04/06

石巻レポート vol.4

4/3
今朝も寒い。
昨夜から強い浜風が吹き、何度も目が覚めた。
夜中に飛ばされたテントもたくさんあったようだ。
止まない風に作業はしんどいものになるだろう。

8:00
全体ミーテイング。
このNGOでは基本的に100名のボランティアが一週間単位で入れ替わる。
肉体的にきつい作業も多く、テント生活で満足な食事もできないうえ、風呂にも入れず、トイレも不便。そういった状況の中、人に迷惑をかけずに支援サービスを提供できる限界を一週間と定めてチームを入れ替えている。
今日はその切り替わりの日にあたるため、新しいスタッフへ心構えや注意事項が説かれた。

10:00
炊き出しの準備をするスタッフ。



フレンチレストランのOシェフから託されて東京から運んできたカレー。
Oさんは普段から北海道の廃棄食材の問題に取り組み、それらを仕入れて自らの技術で極上のカレーに仕立て直し、パック詰めして北海道へ送り戻している。
天ぷら職人Kさんには寸胴を提供していただいた。
KK料理事務所さんからはよく切れる包丁を提供していただいた。
食をただの食料とは考えない人たちからの贈り物である。

10:30
ライターNさん夫妻とNGO共同代表のYさん、普段は国連大学でカメラをまわすMさんを車に乗せ、市内中心部でボランティア活動中のグループの取材に向かう。



12:00
市内黄金浜へ炊き出しに向かう。




炊き出しの場所とさせていただいたお宅の庭先には、ブルーシートを被せた箱が大量に積まれてあった。
菓子パンやおにぎり、みかんにジュース等、どうしたことか、中身が入ったままだ。
尋ねてみると、2日程前から自衛隊がこの辺り一帯の住民への配給品をまとめてこちらのお宅に置いていくのだという。
この地域も震災後2週間を境に避難所を離れ、水没を免れた自宅2階で暮らす人が現れ始めたそうだ。
しかし、どこの家にいつ人が戻ってきているのか住民同士皆目見当がつかない。
電気やガスもなく、夜は灯がともらず、昼間も外出する人はあまりいないからだ。
治安も不安定であまり出歩く気にはなれないという。
町には虚実混淆の情報が錯綜している。
この2日前には警官が刺されて亡くなったというニュースが広がった。ボランティアのベースキャンプでも信じられていたこの話がデマだったとわかったのは私が東京へ戻ってからのことだった。
そのような訳で、こちらのお宅としてもみなさんの分の配給品があるということを伝える術がないし、点在する住民のみなさんも知る術がない。
配給部隊としてもまとめて置いていく以上のことは難しい。確かに指定の避難所は別にあるのだから。
だけれども、自宅で暮らしたい気持ちはよくわかる。
水没した後であろうが、壁が崩れて危険だろうが、皆、様々な決断をするのだ。

箱の中身をよく見ると賞味期限ギリギリのものが多い。
こちらのお宅の方もこれが毎日届けられると困ってしまうと言う。
NGOスタッフが顔を見合わせる。

炊き出しのカレーの横にこれらの配給品をずらりと並べた。
まずは手分けして、各通りへの声掛けである。
「フレンチシェフの特製カレーをご用意しました、お集りくださーい」
「パンやおにぎり、ジュースもありまーす」
しばらくすると炊き出しの前に人の列ができた。
家族の分もと、鍋を抱えていらした方も多い。
カレーはあっという間になくなった。
その場で召し上がる方もいらして、おいしい、ありがとうと仰っていただいた。
配給品はありがたいのだけれど、パンばかり食べるのはつらいという。
おにぎりもすぐに固くなるし喉を通りづらい。
たかだか3、4日、ボランティアベースキャンプで過ごしただけの私ですらそう思う。
やはりなるべくおいしいもの、温かい食べ物をご提供してあげたい。
贅沢と言われるかもしれないがそうではないと自分は思う。
錆びた包丁でおいしいものはできない。
磨かれた包丁で、ちゃんとした鍋で煮炊きして、丁寧な味で、野菜や動物性タンパク質をきちんと取り込む。
食料ではなく人の食事。
非常と日常が入れ子になっている今だから、より鮮明に浮かび上がる大事なこと。
口にすれば細胞が理解する。
気力が湧いてくる。

個人的にはさらにバラエティ豊かに欲を満たす食がここに増えていいと思う。
たこ焼きでもBBQでもいい。不謹慎なことはないと思う。
自転車で走り回って遊んでいる子ども達だってたくさんいるのだから、その子たちに「やったー、たこやき。うまそう!」と言ってもらいたい。

炊き出しに寄ると、併せて配給品の箱から食料や物資を持ち帰っていかれる方が相当数いらした。
この時初めて配給にカセットコンロ用のガズボンベがあることを知った方もおられた。
「同じ釜の飯を食う」ことをきっかけに、崩れかけた地域のつながりを再構築できるのかもしれない。
賞味期限が危うい配給品に関しては、炊き出しの道具を回収する車が点検し持ち帰るよう、今後もそうするようにと、NGO現場リーダーがすぐに電話指示をいれていた。
炊き出しとは食料支援と似て非なるものだと知る。

15:00
ベースキャンプに戻る。
私は今日で一旦この地を後にする。
帰京する車の同乗者が決まらないためしばらく待機。

17:00
ライターNさんはまだしばらく残ることになった。
持ち合わせの風邪薬やトイレットペーパーなどを渡す。
Nさんの奥さんを乗せ2人で東京へ向け出発。

0:30
東京着。街は暗い。
節電は良いが自粛ばかりではよろしくない。
今後も機会をつくって何かしらの支援や取材を続けていこうと思う。
この4日間で感じたことは改めて整理して綴りたいと思う。


宮崎 純一

石巻レポート vol.3

4/2
朝5:00起床。
今日は被災地域の撮影にまわる。
仕事の都合で今日の午前中までしかいられない農家のK君とO君も少しでも多くのことを覚えておきたいと同行する。
初日に町工場の男性に教えていただいた高台の日和山公園へ向かう。


日和山公園より沿岸部を臨む。
この高台には神社があり、町から参道が続いている。
あの日、皆が決死の思いでここを目指したであろうことは想像に難くない。
手を合わせずにはいられない。



参道を降り、立ち尽くした。


この辺りには日本を代表する大きな製紙会社の工場があったのだが、それらも壊滅状態とのことだ。
津波が全てをなぎ倒してしまった。
ここから北へ約30km、さらに被害が大きかったといわれる女川へ向かう。


高台の病院より女川の町を臨む。
3階建てのビルの上に車や船が乗っている。
狭い入り江で山に囲まれた地形のため、波形が高く、また津波が繰り返すうちに水位と圧力がどんどん高まったようだ。
撮影地点の女川町立病院は小高い丘の上にあるが、津波はその駐車場のフェンスをなぎ倒し浸水している。




9:30
ベースキャンプに戻る。
農家のK君とO君は出発ギリギリまで物資搬入を手伝っていた。
再会を約束して、握手を交わし見送った。


11:00
ライターのNさんを介して、今日から現地入りしたNGO共同代表のYさんと東京で飲食店を営むベトナム人のTさんにご挨拶。4人でもう一度今朝のコースを見てまわるため出発。

女川再訪。
ドラム缶を釜戸に煮炊きをして暮らしている家が数戸ある。
話を伺うと、食料はなんとかなるものの電池やガスボンベがひとつも無く、夜はろうそくの灯が頼りだそうだ。
震災から約20日が過ぎ、避難所を離れ、このように自宅に戻り暮らし始めていらっしゃる方がいる。局面がめまぐるしく変わる中、今、どこで誰がどのように日々を過ごしているのかを自治体単独で把握することは難しい。役場や役所、そこで働く人たち自体が被災しているのだから無理もない。必要なところに必要な支援をするために、毎日の町の姿を地図化していくことはNGOの重要な役割のひとつである。


人がぽつりぽつりと歩いている。
知人のアルバムや想い出の品を探していると仰られた。
よく見ると、所々道の隅にカゴが積んである。
自衛隊が撤去作業中に見つけた写真や日記などをまとめて置いていくそうだ。
今、この町はまるで永遠に続くこの世の果てのようにも思える。
それでも人は想い出を求めて歩くのだと、ただその事実を胸に刻もう。

15:00
ベースキャンプに戻る。
ガソリンが心もとなくなってきたので、内陸側のスタンドへと向かう。
内陸へ通じる国道の先には大きなショッピングモール、ガソリンスタンド、三陸道のICがある。信号が機能していないこともあり渋滞している。
かなり手前から給油列最後尾とマジックで書いたダンボール紙を掲げたお兄ちゃんが立っている。

16:00
満タン給油。
10台ほど後ろで販売終了となったのでギリギリだった。
郊外まで足を伸ばしてもこれなのだから、市内中心部ではガソリンは全く足りず、販売すると30分もしないうちに底をついて店が閉まってしまう。

16:30
ベースキャンプに戻ると、ベトナム人のTさんが急遽東京に戻ることにしたので駅まで送ってほしいと言う。17:30に仙台行きの高速バスがあるそうだが、果たして。
駅に着いたが、やはり全く機能していなかった。
消防本部が臨時のバス発着場になっているとわかり、急いで向かう。
そこは自衛隊が臨時の入浴施設を運営している場所でもあるらしい。
発車10分前、間に合った。
Tさんは戻ったら在日のベトナム青年会に声をかけて、ボランティアを組織して来週また来ると言っていた。
車の窓を開けて手を振ると、両手を合わせてずっとお辞儀をしてくれた。
ユニークで優しい人だった。

18:00
ベースキャンプに戻る。
今夜は早めに寝ることにする。


宮崎 純一

2011/04/05

from here


人の歩みを進めるのは「希望」ではなく「意思」

人の歩みを止めるのは「絶望」ではなく「諦観」

新しい命に出会った時、感じられずにはいられない。

前を向いて一歩一歩。

花渕 浩二

ラベル:

石巻レポート vol.2

4/1
寒さに凍えながら夜を明かした。
桜が咲き始めた春間近の東京と違い、この地ではまだ毎朝氷点下を記録する。
加えて、舞い散る埃と季節病の花粉症が重なり、皆、目を真っ赤にして鼻をすすっている。

8:00
全体ミーティングと体操。
私と農家のK君、O君の3人には「泥かき」作業が割り振られた。
スコップやネコ(運搬用一輪車)を積んだバンの後ろを車でついていく。
国道から一本中の通りへ入ると、車一台がようやく通れる道の両脇にうず高く瓦礫が積まれている。私たちの作業場所はそこからさらに角を折れた30mほどの生活道路である。
道具一式を降ろしたバンは別の作業現場へと向かった。
ここからは私たち3人でこの通りの住人さん達とコミニュケーションをとりながら作業を進めていくことになる。


既に通りの両脇に泥が寄せられていたこともあり、一見したところ、半日で終わるのではないかと思った。
しかし意外や、この泥がやっかいだった。
油を含んだヘドロの塊でかなり重い。
それでも乾いて固まってきているところは幾分作業が捗るのだけれど、水っぽいドロドロしたところが大変。スコップですくって土嚢袋にいれていくのだが、粘着質でなかなか剥がれてくれない。腰をいれてひとかきして、しゃがみこんではスコップから手で削ぎ落とすという気の遠くなる作業の繰り返し。
K君はゴボウ農家で普段から掘るのが仕事、O君は花栽培農家だけれど元陸上自衛官という経歴の持ち主。そんな2人もこの泥には苦戦していた。

いまひとつペースを掴めないままお昼をむかえる。
「食べるもんはあんのか」
「遠慮しねぇでお茶っこ寄ってけ」
通りのみなさんが声をかけてくれるが甘えていたら何をしにきたのやらわからない。
青空ランチだ。
O君がまた携帯コンロで湯を沸かして3人分のカップラーメンを作ってくれる。
自分は嫁さんが持たせてくれたおにぎりの残りを渡す。
全身にカロリーが染み渡っていく。

午後の作業は少し慣れてきて3人の分担もスムーズになってきた。
スコップで泥をかく者、土嚢袋に詰める者、ネコに袋を積み上げて通りまで運ぶ者。
同じ作業を続けると疲れてしまうので、細かく交代しながら進めていく。
通りのみなさんはそれぞれに家の中を片付けていたが、3時になると手を止めて、1日1回の配給を受け取りに出掛けていった。
戻ってくると栄養ドリンクをおすそわけしてくれた。大変貴重なものだろうに。ありがたい。
作業の傍らみなさんとお話した。
被災された方なのだから、食料がない、とか、電池がない、とか直接的に訴えられるのかと思っていたけれど、そうではなかった。
みなさんが広い視野で長期的に考え、これからの国や世界がどうあるべきかを口々に語ることに驚いた。日本の官僚民主主義ともいうべく体質不純をズバリと切ってのけるのだ。
東京にいて、何か安穏とした雰囲気に違和感を感じていた自分の胸に熱いものがこみ上げてきた。

17:00
なんとか作業終了。
30m程の通りをきれいにするのに男3人がかりで丸1日かかってしまった。
ただ、こうした通りには自治体や自衛隊の撤去部隊も人員不足で入ってこれないこともあり、住民のみなさんには喜んでいただけた。
突然現れた3人組が自宅前の泥をさらっていくので、最初は「○○さんのお家のご親戚の方ですか」と言われた。
違いますよと返事をすると、「うちの方もやってもらえるのかね」とあちこちで訪ねられた。
どうにか通り一本きれいにして帰りたいと作業をしていたら色んな人が話しかけてくれた。
震災ボランティア素人で不安もあったのだけれど、普段、フリーのカメラマンという仕事は否が応でも名前の残る仕事な訳で、どこでも同じように恥じることない仕事をすれば良いのだなと思った。
帰り際、どうしても受け取ってほしいと配給品のパンやおにぎりが入った袋を手渡された。
こちらが届ける側なので受け取れないですよと言うのだが、ぎゅうぎゅうと袋を押すようにして受け取ってほしいと言う。
ありがとうの一言がこんなにも肉厚な手応えを持つ言葉であることを初めて知った。

一口に被災地域と言っても、通りを1本隔てるだけで状況はガラリと変わる。
それに応じて必要な支援や物資も違う。
今回作業させていただいた区域は一見すると、被害が比較的小さいところと映るかもしれない。
それでも泥かきをするだけでこんなに大変なのだ。
お年寄りだけの世帯もあり、この程度の作業は住民の方々でやってくださいというのはあまりに酷だ。
ボランティアは人余りになってきた、あるいは、物資は足りてきた、次は仕事だなどという報道もあるけれど、それは一面的なものでしかないと思う。局面は無限でやることは様々、たくさんある。まだまだ人の力が必要だ。

それから気になることがひとつ。
放射性物質は風に運ばれて森林や山の斜面に当たるとそこに滞留する。
そして路面の放射性物質は雨で流されて道路脇に集まるという。
チェルノブイリの調査でもそのような場所で高い線量を観測したデータがあるという。
所によっては今回私たちが行った泥かきボランティアも大変な危険を伴う作業になり得る。
原発事故のあおりで津波被害対応が遅れている福島へ、今後、ボランティアが入っていくとしたらどうなるのだろう。
国や東電にはただただ正確な情報開示を願う。
世の中には危険でも決断してその場に臨む魂の強い人間がいる。そういう人たちが自ら判断して行動できるようにありのままのデータを出してほしいと思う。

19:00
農家のK君とO君を昨日見た被害の大きい地域に案内した後、ベースキャンプに戻る。
1日作業して人の情けに触れた後に見た甚大な被害地域。そこには人情も何もない。
帰りの車中、終止無言の3人。
NGO団体のリーダーUさんがジャーナリストTさん夫妻とともに一時帰京するのを見送った。
Uさんはショックを受けている私たちに握手を交わし、それでも町が凄くきれいになってきてるんだと言った。ぽっと来た自分にはわからないことだが、震災直後に単身乗り込んで支援にあたってきた彼の言うことはきっと住民感覚に近いものなのだろうと思う。ならばそこに希望があるのだと信じたい。

仙台のラーメン屋さんがボランティアスタッフのために炊き出しにやってきた。
突如現れた出店は大盛況。生姜をきかせた辛味噌仕立てのスープに野菜をたっぷり入れたラーメン。芯から温まり、疲れた身体と脳みそが活性化してくる。
おかわり自由というので2杯食べた。
食い物は命の元だなとつくづく思う。
今晩からはUさんが帰京し空いたテントにみんなで寝られることになった。
毛布もたくさんあってとても助かる。
Uさんの親友のライターNさんは彼の代わりに本部での仕事を任され忙しそうだ。
明日は自分も早起きして撮影にまわる。


宮崎 純一

石巻レポート vol.1

3/31
早朝4:30に自宅を出て、ライターNさん夫妻宅へ向かう。
都内のシェフさん達から託された炊き出し用の寸胴やカレーを車一杯に詰め込み、Nさん夫妻とともに東北道を走る。
途中、栃木の高速PAでジャーナリストTさん夫妻、若手農家のK君とO君が合流。
農家の二人は仲間に声をかけて集めた米や野菜、ガスボンベなどの物資を3tトラックに詰め込んでやって来た。
那須高原SAを過ぎ、福島の県境を越えたあたりから風景が変わり始めた。
道は補修後の今もなおうねり、ブルーシートで屋根を覆った家々が点在する。
原発に不確定要素が多いので、福島のPA・SAには立ち寄りづらく、一気に宮城県まで抜ける。
他の車も同様に感じた。
北へ向かう車には何らかの協力や支援の気持ちを持った方々が多いのだろうと思うけれど、それでも原発事故と放射性物質への恐怖心で安易に車を降りることができないというのが正直なところだろう。
東北道を降り、石巻市へ向かう間の風景は然程被害を感じさせるものではなかった。
屋根瓦が崩れ、電柱が傾いたりという状況が散見されるものの、単に地震による被害という面では東京と近いレベルだと感じた。
阪神淡路大震災の直下型地震とは様相が違うと、当時の現場を知る者が話してくれた。


15:30
石巻専修大学に到着。
ここは被災された方々の避難所であるとともに、自治体やNPO等ボランティア団体の活動拠点となっている場所である。
団体に所属しない個人ボランティアの方の登録受付やボランティア保険の加入説明なども行われているようだ。
私たちはその中のひとつのNGO団体と合流。
その後の取材や活動でお世話になることになる。
皆で手分けして荷下ろしを終えた後、ジャーナリストTさん夫妻らとともに被害が大きかったといわれる沿岸部中瀬へ向かった。
旧北上川にぶつかる角を曲がると風景が一変した。


現場に立つ。
ニュース映像で見た光景ではある。しかし。
灯の消えた町に吹きすさぶ凍てつく風、ヘドロの臭い、倒壊した家屋のささくれ。
民家が、商店が、橋が、工場が、つい20日程前まで確かにあった生活がどこを見ても壊されてしまっている。
交差点に船が横たわり、壁には車が突き刺さり、屋根の上に家が乗る、津波被害の恐ろしさ。
あるべき形を失い、意味や価値が宙をさまよう。

闇が覆い始めた通りをさらに車で走ると、ある町工場で一人の男性に出会った。
彼が語ってくれたことに対して、私がここに言葉で綴ることは難しいのだけれど、とても丁寧な口調が印象的で、深い悲しみと慈しみ、意地がない交ぜになった人間の姿だったろうと思う。
別れ際、高台の上に日和山公園という場所があると教えてくれた。
北上川が海へと注ぐこの町の風景が一望できる桜の名所なのだという。



19:00
ベースキャンプに戻る。
農家のK君が携帯コンロで湯を沸かし、珈琲をいれてくれる。
物資を降ろしたトラックの荷台に皆が集まりおにぎりを食べながらの座談会になった。
今晩の寝床はジャーナリストTさん夫妻がご自身の車、ライターNさん夫妻が私の車、農家のK君、O君、私がトラックの荷台となる。
寝袋にくるまった後も話が尽きなかった。みんな震災で色々考えたことが胸に詰まっていたのだろうと思う。
明日は朝8:00に全体ミーティング参加後、ボランティア活動に向かう。


宮崎 純一